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「鬱陶しさ」からの開放は、政治革新から

 梅雨です。鬱陶しく思うのか、「恵みの雨」と思えるのか、四季のうつりかわりの情緒を味わうのか、人それぞれに思うところがあるでしょう。「恵みの雨」、情緒として味わいたいと思うのだが、私たちと社会に”ゆとり”がなくては、どうしても鬱陶しくなってしまいかねない。
 洪水や土砂災害のニュースを聞いて、「恵みの雨」などとは思えまい。コンクリート都会のせまい住居にいて、情緒が味わえるだろう
か。これらは、すべて自然破壊に起因するもの。
 自然破壊は「自然」に破壊されたのではない。たいそうな機械をつかい、人工的な力で人間自らが破壊してきたものだ。さらに言えば「公共事業50兆円・社会保障20兆円」の逆立ち政治こそが元凶と言ってよい。「国の治めは治水から」とは、むかしから言われてきたもの。山は荒れ放題で手入れもせず、ムダな巨大ダムを次々つくりコンクリート固めの堤防では、「川」は死んでしまう。このように見ると「公共事業50兆円」は、「治水」事業とは無縁のものと思わざるをえない。
 梅雨の鬱陶しさを政治に結びつけて語ることは、必ずしも飛躍しすぎているとは思えない。それほど今日の悪政は私たちの生活に直
接影響し、気分にまで入り込んできているのではなかろうか。
 保育園は、ひろい園庭をもち、雨の中でも泥んこ遊びに興じられるような場所でありたいものだ。緑にかこまれた高齢者施設で、窓
から雨空を見つめ、しみじみと過去を懐かしむのもいいものではないか。公園がいっぱいあり、おおきな道路でも街路樹がしげり、ま
してや住居地にはいたるところに緑がある。バリアフリーがきめ細かく考えられ、人間が人間らしく生きていかれる都市。
 このようなロマンと視点で、これまでの「公共事業費」が使われてきたならばと、今さらながらに思わざるをえない。政治とは「どの
ように国民から税金を集め、使っていくのか」ということに尽きる。
 悪政をすすめる国会会期延長など、まつぴらご免としたいものだ。