■組合の主張・焦点■ | 戻る |
「鬱陶しさ」からの開放は、政治革新から 梅雨です。鬱陶しく思うのか、「恵みの雨」と思えるのか、四季のうつりかわりの情緒を味わうのか、人それぞれに思うところがあるでしょう。「恵みの雨」、情緒として味わいたいと思うのだが、私たちと社会に”ゆとり”がなくては、どうしても鬱陶しくなってしまいかねない。 洪水や土砂災害のニュースを聞いて、「恵みの雨」などとは思えまい。コンクリート都会のせまい住居にいて、情緒が味わえるだろう か。これらは、すべて自然破壊に起因するもの。 自然破壊は「自然」に破壊されたのではない。たいそうな機械をつかい、人工的な力で人間自らが破壊してきたものだ。さらに言えば「公共事業50兆円・社会保障20兆円」の逆立ち政治こそが元凶と言ってよい。「国の治めは治水から」とは、むかしから言われてきたもの。山は荒れ放題で手入れもせず、ムダな巨大ダムを次々つくりコンクリート固めの堤防では、「川」は死んでしまう。このように見ると「公共事業50兆円」は、「治水」事業とは無縁のものと思わざるをえない。 梅雨の鬱陶しさを政治に結びつけて語ることは、必ずしも飛躍しすぎているとは思えない。それほど今日の悪政は私たちの生活に直 接影響し、気分にまで入り込んできているのではなかろうか。 保育園は、ひろい園庭をもち、雨の中でも泥んこ遊びに興じられるような場所でありたいものだ。緑にかこまれた高齢者施設で、窓 から雨空を見つめ、しみじみと過去を懐かしむのもいいものではないか。公園がいっぱいあり、おおきな道路でも街路樹がしげり、ま してや住居地にはいたるところに緑がある。バリアフリーがきめ細かく考えられ、人間が人間らしく生きていかれる都市。 このようなロマンと視点で、これまでの「公共事業費」が使われてきたならばと、今さらながらに思わざるをえない。政治とは「どの ように国民から税金を集め、使っていくのか」ということに尽きる。 悪政をすすめる国会会期延長など、まつぴらご免としたいものだ。 |